2019年04月24日

自分を救う

周りに批難されたからと言って

傷つきっぱなしでは
あまりにも自分が
かわいそうで


それを回避するには
いろいろな方法があって

相手の問題だと
誰かのせいにもできるし

批難を批難と受け取らない
という方法もあるし

相手の立場や心情を理解して
なら、しかたないか、と
であれば、自分はどのように対応すればいいのかを考えることもできる。


周りに対して
どのような姿勢でいるのかは

「自分はどういう人か」
を表現する方法でもあり


周りに合わせることが
すんなりできる人もいれば

合わせることが難しく感じられる人もいるので

それぞれに
ふさわしい方法で
乗り越えられればそれでいいのだけれど


若いうちは
(若くなくても、心の状態や成長の段階などにおいて)
何かと摩擦も多くて

自分を形づくっていく上での
削ぎ落としでもあるので
痛みを伴うことも多く

傷としても残りやすいけれど


年齢を重ねていくうちに
(成長に応じて)

その傷さえも
アートにできるほどの
生命力や自分力にすることもできて

傷は消えないけれど
表現のしかたによっては

それは
とても美しい景色となる。


誰かに何かを言われて
落ち込むことが
あったとしても


その言葉を
よく観察してみると

だんだん

「その人自身の問題」か
「自分が過剰に反応しているだけ」か

何かしら
見えてくる。


他の誰かの話をしているのかもしれないのに
自分が言われたかのように反応することもあったり


わざわざ
“本人”を目の前に
言うだろうか?

と考えてみると

自分が相手をそのように疑っていたり
自分が反応しているだけだと気づいたり
相手の問題であることもあったり


いろんなケースがあるけれど

自分を救うには

相手も自分をも
責めない答えを見つけると

とても心が軽くなります。

(人のせいにしてもいい設計図を持っている人もいます 笑。その設計図を持っていなければ、同じことをしても、残念ながら許されないでしょう)


見つけた答えが
事実であるかどうかは別で
(その答え合わせは要らない)

自分の心が救われるのならば
少しでも世界が明るくなるのなら

自分を責めて
苦しくなるより

他者を責めて
世界を狭くするより

ましのように思います。


「揺さぶり」(自分にとって好ましくないこと)は

そのように信じた方がいいという
ベストアンサー

探るには
とてもよい時間で

「このように在り続けよう」と
改めて思える(進む先が見つかるような)瞬間を迎えることもあって



そして
自分が救われた言葉は

いつか
誰かを救うことがあるかもしれない。


古い傷
欠けた部分
つらかった過去
なかなか思い切れない悩み


金継ぎのように
それらの部分が
たまらなく美しく
光を放つこともあるのです。


自分にはありがたくない傷でも
それを魅力的に思う人もいるのです。


そのままでも
愛されます。


そのように
信じてみましょう。




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posted by Kaoru at 10:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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