2013年04月24日

人生の彩り1

ドキュメンタリーや人生のいろいろのお話を聞くのが好きです。
勇気をもらえるからです。

先日、テレビでケンタッキー・フライドチキンの創業者カーネル・サンダースの壮絶な人生について放送されました。5歳で父を亡くし母は農場で働いていたため、兄弟の面倒をみるのは彼の仕事でした。ある日、生まれて初めて自分で焼いたパンをどうしてもお母さんに見せたくて、彼は幼い兄弟を連れて5キロ離れた農場へと歩いて行きます。
この時、初めて焼いたパンをみんなに「美味しい」と褒められたことが忘れられず料理に興味を持つようになりました。10歳になったカーネル・サンダースは家計を助けるため農場に働きに出るようになりましたが、仕事に集中していないという理由で1ヶ月で解雇されてしまいました。そんな彼に母親は「仕事に必要なことはベストを尽くすこと」と優しく諭しました。
この言葉はカーネル・サンダースの胸に深く刻まれ一生忘れることの出来ない言葉となりました。
その後、13歳で家を出て都会で様々な職業を経験します。その数20以上。
そんなカーネル・サンダースに転機が訪れたのは37歳の時のことでした。

アメリカ南部ケンタッキー州にあるガソリンスタンドが経営者を探していることを知り店を預かることになっり、彼は自分のお店を持ったのです。
母の教えを心に、彼は他の店より2時間も早い朝5時に店を開き、窓拭きのサービスで次第に評判を得るようになていきます。そしてお店は繁盛店になりました。しかしカーネル・サンダース39歳の時、世界大恐慌が起こりガソリンスタンドを手放すことになってしまうのです。
しかし、翌年、彼は、彼の誠実な働きぶりの噂を聞いていた石油会社の人に、別のガソリンスタンドを経営してみないかと話を持ちかけられたのです。
そこは交通量の多い国道沿いにあり好条件の場所でした。
しかし、近くにレストランはなく、運転してくるお客さんが「長旅で腹が減ったんだが、この辺りにレストランはないようだね?」というお客様の一言がきっかけで、すぐに倉庫の一角をレストランに改造し、テーブル1つといくつかのイスを並べ「サンダースカフェ」をオープンさせました。メニューはもちろん、幼い頃、母親が作ってくれたアメリカ南部の郷土料理。お客様は彼の料理に大満足で、レストラン目当てに来る客が増えていきました。
サンダースカフェは、国道を利用するものたちが必ず利用する場所となっていきました。やがて、道を挟んだ向かい側にも店舗を広げ、テーブルを6卓に増やし、新しいレストランを開店します。サンダースカフェの常連客の中には、ケンタッキー州の知事もいました。そして、地域を活気づけてくれたとして、ケンタッキー州の名誉称号(カーネル・サンダース)が授けられたのです。
『カーネル』とは元々、軍隊の『大佐』を意味する称号だとのこと。しかし、このころには軍事に関係なくても贈呈されていたのだそうです。カーネル・サンダースは、ケンタッキー州の食文化の発展に貢献したことが評価されたのです。
カーネル・サンダースのカーネルは名前ではなく称号だったという驚きの真実(笑)

彼はそれでも日々メニューの改良に取り組んでいました。
アメリカ南部では、鶏肉は馴染みの食材で、フライドチキンは定番のもてなし料理でした。
彼の心には、子供の頃、お母さんが時間をかけフライドチキンを作ってくれたという懐かしい思い出が刻まれていました。店のメニューには載せてはいましたが、まだまだ美味しくなるはずだと、研究を続けていました。彼にとって、フライドチキンは特別な料理だったのです。
彼は鶏肉につける小麦粉にハーブや香辛料を混ぜて、スパイスの組み合わせを何百通りも試し、実際にチキンを揚げては客や従業員に試食してもらい意見を取り入れるという作業を繰り返しました。そして7年をかけた49歳の時、とうとう現在の味の11種類のスパイスの調合に辿りついたのです。
こうして完成したオリジナルのフライドチキンは「サンダースカフェ」の看板メニューになりました。これに自信をつけた彼はガソリンスタンドを手放しレストラン経営に専念します。
ゆくゆくは、さらに店を大きくし、より多くの人に自分の料理を食べてもらいたい、そう思っていた矢先のこと、サンダースカフェが原因不明の火災により全焼してしまいます。
10年かけて、徐々に大きくしていった自分の店が、一夜にして灰になってしまい、再建するお金もなく、もうどうにもならない、と諦めかけた時、たくさんの常連客の励ましがあり、店の再建を決意します。
それから資金集めに奔走し、火災から2年後、150人近くの客を収容できる大型レストランとして「サンダースカフェ」は再建したのです!

再出発を果たした彼は、ある日、前年に行われたニューヨーク万博で初めて紹介された圧力鍋と出会います。 サンダースは早速圧力鍋を買って帰ると、チキンを揚げてみました。調理時間が半分になるというふれこみの圧力鍋を使うことにより、それまで注文を受けて提供するまでに30分かかっていたため、時間に余裕のある客にしか出せなかったのが、フライドチキンが15分で作れるようになったのです。
チキンの量産が可能になり、短時間で注文でき、しかもおいしいとあて、注文は飛躍的に増え、口コミで広がり、お店は大繁盛し、借りていた再建資金をたった1年で返済。
その後、第2次世界大戦の混乱を乗り越え最愛の伴侶、クラウディアさんと結婚します。

しかし、自動車を持つ人が増える事で新たな道路の整備がすすみ、サンダースカフェの前の交通量が激減します。
さらに、高速道路の計画が発表されました。旅行者やトラックドライバーが主な客だったサンダースカフェが大打撃を受けることは目に見えています。この時点で、彼はレストラン以外の事業にも着手したもののうまくいかず多額の借金を抱えていました。カーネル・サンダースは再度、62歳にして絶望の淵に立たされます。

そんな時、絶望したサンダースに妻のクラウディアは「まだあなたにしかできないことがあるのではないか」と励まします。 彼は妻の言葉で、新しいアイディアを思いつきます。
それを、たまたま経営者飲食店のオーナーたちの親睦パーティーで、ユタ州で一番大きなレストラン経営を成功させていた親子ほど年の違う若き経営者と知り合い意気投合します。
彼は、ずっと年下の若いレストラン経営者に新しいアイディアを聴いてもらいたいと思っていました。
若き経営者の家で自分の自慢チキンをふるまうと、絶賛してくれ、是非自分のレストランでのメニューに加えたい言ってくれます。そこで、彼は自分の新しいアイディアを打ち明けます。
カーネル・サンダースが思いついたアイディアはフライドチキンの作り方をレストランに教え売れたチキンの分だけ利益を還元してもらうというフランチャイズ方式。
しかし、当時の外食産業では初めての試みで、若き経営者は最初難色を示します。
ですが、自分の店でそのチキンを提供したところ、たくさんのお客様の笑顔が。
それに「売れる」「成功する」という確信を得た若き経営者は、カーネル・サンダースと契約を結び、フライドチキンが1つ売れるごとに5セント支払うと約束します。そして、そのフライドチキンにカーネル・サンダースのチキン、とわかるように「ケンタッキーフライドチキン」という名前を付けるのです。
そのお店は「ケンタッキーフライドチキン1号店」として大きな看板を掲げました。
カーネル・サンダース本人の命名ではなかったという驚愕の真実‼(笑)

しかし、いよいよ高速道路の完成が近づき、カーネル・サンダースは25年間経営してきたサンダースカフェを売却。それを借金の返済にあてることができましたが、結局手元には何も残りませんでした。

65歳にして全てを失うのですが、彼には、たくさんのやることがありました。
車に圧力なべ、スパイス、チキンを積んで、本格的にフランチャイズ店を探す旅に出るのです。
彼は妻と共に、日々フライドチキンの味をアピールし続けます。
南部伝統のドレスを着たクラウディアが客をもてなし、カーネル・サンダースは料理を作り終えると、アメリカ南部の正装でお客様の前に登場します。このおなじみの白いスーツ姿こそが、現在のケンタッキーフライドチキンの店頭に立つカーネル人形と同じスタイルなのです。
こうしたサービススタイルもベストを尽くすという母の教えのままでした。

セールスの旅を始めて1年後、ある日を境に、フランチャイズの問い合わせが次々と舞い込むようになります。それはユタ州の店でトラブルが発生していたからでした。店員が訪問販売の口車に乗せられ本来必要のない紙バーレルを大量購入してしまい処理できずにいました。しかし、若き経営者の思いつきで紙バーレルの中にフライドチキンとビスケットを詰め込みテイクアト用として売り出したところ、飛ぶように売れたのです。
持ち帰りの客だけでも十分に利益が上がり、立派な店舗をかまえる必要もない絶好のビジネスチャンスだととらえられるようになり、さらに大行列がその宣伝効果をあげ、新規開店を考えるオーナーが急増します。
こうして3年間で200店舗ものフランチャイズ店が誕生し、カーネル・サンダースはアメリカを代表する一流経営者の仲間入りを果たしたのです。
その後もカーネル・サンダースは母の言葉通り、自ら200以上の店舗に足を運びフライドチキンを揚げてみせるなど調理法を指導してまわりました。さらにフランチャイズ店は海外にも進出。その数は600店舗にも及びます。
65歳で無一文になってから挑戦を始め、見事に成功を収めたカーネル・サンダース。
その原動力となったのは、幼い頃、母親から教わった『ベストを尽くし、人の喜ぶことをする』というもてなしの心でした。
カーネル・サンダースは晩年までその信念を貫き、90歳で肺炎により人生の幕を閉じますが
その数日前まで料理の指導を行っていたと言います。

素晴らしい生きざまです。感動でした。
「成功」、表向きはきらびやかに見えるものかもしれません。
でも、真実の姿には、生涯、心を尽くし努力し続けた姿勢がうかがえます。
いかにして他者のために尽くせるかを問い続けた人生。信念があればブレないのですね。
母から受け継いだ思い出(それは愛情そのものだったと言えましょう)を大切にし、もらった言葉を心に刻み生き抜いた一生。尊いです。

そして、誠実に生きていれば、ちゃんと天からのサポートがある。


常に問いかけていることがあります。
私は、自分で一生懸命やっているつもりでいるけれど、もっとできるのではないか?
私にできることは何か。

それは本当にできているのか。


生涯の課題です。


posted by Kaoru at 20:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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