2012年08月24日

受け入れるということ

健康な身体にあこがれていました。
いつも思っていました。どうしてこんな身体なのか。なぜ病を持って生まれてきたのか。

もしも、自分が健康だったらこうだったかもしれないのにと、よく妄想したものでした(笑)
健康だったら、もっと全然違う人生になっていたはず・・・と恨めしくも思いました。

でも、それは虚しいことでした。
どんなに望んでも治らないから。

諦めることが多かった。
どうせできないから、初めから望まなかった。

その方が、自分が傷つかずに済んだから。

病気じゃなかったら・・・
普通の生活ができたら・・・
奇跡が起こって、治ってしまったらいいのに・・・
こんなふうに、自分の身体を自分で否定しているときは、どんなことも受け入れられませんでした。
たとえ、相手が「理解しよう」と思って言ってくれた言葉だったのだとしても、受け取れないのです。
「同情なんかいらない」と。

「かわいそう、大変だね」と言われると、どうしようもなく惨めな気持ちになったものでした。

そして、なんでもかんでも悪い方に考えて、何もかもが「だから自分はダメなんだ」という考えに行きついて、
「誰も、どうせ本当にはわかってくれない」
と、勝手に独りぼっちになっていたのでした。

自分の思考がネガティブなものだから、一般的に希望や光を感じさせる言葉をきいても、何を言われても、自分にはしっくりこないのです。ちょっとひねくれたりネガティブだったりする方が、落ち着くの。
だから、自分にとっては、「ネガティブ」な方が「真実」なの。


いじけてたね、私。

でも、「誰もわかってくれない」という思いは、裏をかえせば、「わかってほしい!」という激しく渦巻く甘え(渇望)以外の何物でもない。
・・・と、今の私は思うのです。
でも、当時の私には死活問題のように思えた。

居心地がいいのは、いつも自分を甘えさせてくれる人、認めてくれる人(←飢えていましたから、「承認」に)。あぁ、でも、これって、共依存の入口〜台風
こんな自分じゃ、永遠に「自分を認めてくれる人」が必要になってしまう・・・
でも私が望むのは、そういうのじゃない。

強く思いました。
「自立」しなければ、と。

そうして始まった、独り歩きへの道。
いろんな気づきがありました。
本当は、たくさんの人が、心配していてくれたこと。
誰もみてない、わかってない、と思っていたのに、見てくれて、ちゃんとわかってくれていた人がいたこと。
そんな小さな発見を繰り返すうちに。
だんだん自我も成長してくれたようでした。

違う立場・目線から自分を考える事もできるようになった。

よ〜く考えたら、経験がない人には、わからなくてあたりまえなのです。
「経験がない」のだから。想像するしかない。
それを「リアルにわかってくれ」って言われても、戸惑ってあたりまえ。
ずいぶん難易度の高い期待ですたらーっ(汗)
もしも逆の立場だったら、戸惑うもの。
「そうなんだろうなぁ、つらいんだろうなぁ」くらいしか思えないもの。

わからないひとにできることは、わからなくても、批判しないことなのかな。

理解できないのなら、せめて否定しない。


本当に自分のことをわかってあげて即座にケアできるのは、自分しかいない。
自分で自分をわかってあげて、いたわってあげられるようになると、不思議におとなしくなってくれます。
人のどんな言葉も、入ってくるようになるのです。何の影響もなく、嬉しい言葉は嬉しい言葉として。
自分が自分を受け入れられるのと、外側から言葉が入ってくる量は、比例していました。
自分が心を開けば開くほど、たくさんのものが入ってくる。
「わかってほしい」「認めてほしい」と、自分からわざわざいろいろ話して「言い訳」することもない。
ナマケモノと思われてもいい。無理をしないで、堂々と休む。
身体と相談しながら、一緒にいる人には一言伝えて(正直に伝えたのなら、それをどう受け取るかは、もう相手の問題)、無理なことは無理と言う。
理解されなくてあたりまえと思っているから、「どうしてわかってくれないの?!」にはならない。
初めは「理解されなくてあたりまえ」という思いは寂しさを伴いました。

でも、少しずつ意識が変わっていきました。

この身体でも、できることがある。
好きなことを見つけて、それに没頭して、それを通して社会とつながることができる。

身体と上手に一緒に生きていくことができる。
みんなと同じではなくても、それは個性のひとつとして受け入れる事が出来る。
その状態をただ認めてくれる人もいる。

そう、自分で自分を受け入れた時から、人の言葉に傷ついたり、過剰に反応したりする事が減りました。
すべてを自分のものとして決めた時から、自分らしく生きる事が可能になったのです。
だから、何を言われても、「そういう人も、いる」「こんなことも、ある」「でも私の内側とは関係ない」と線を引くことができるようになったのです。
私は、私。
「言う人」もいるし、「言わない人」もいる。それは、個人の問題。誰とどんなふうに付き合うかは、誰でも自由に決める事ができる。
もう、「自分を承認してくれる誰か」は、必要ない。
だから、ありのままの自分、リラックスした自分でいられる。無理に何かしなくてもいいんだ。


受け入れるって、こういうことか。

こんなに楽なんだったら、もっとはやくやればよかったなぁ。

でも、そこまでの道のりも必要だったんだろうなぁ、きっと。
いっぱいいっぱいだったよね。
やっとここまで来たけれど、当時は、思いもしなかったよね。
がんばったなぁ、私。

・・・というか、今思うと、当時の私につきあってくれた友人たちには、感謝&ごめんなさいです<(_ _)>
(よくつきあってくれたよなぁ(・_・;)←なんて勝手なあせあせ(飛び散る汗)
グラグラな私、感情の起伏の激しい私、心を閉ざしている私、神経質な私。
大変だっただろうなぁ。
今の私があるのは、みんなのおかげです。
みんなみんな、ありがとう、心から。

私の友人たちは、本当に「理解しよう」と思ってかけてくれた言葉だったのかもしれない。
それを受け取れなかったのは、私。
ありのままの私を受け入れてくれていたのかもしれない。
それを信じられなかったのは、私。


「なんだ、こんな人生!」とゴミクズ同然に思うこともできるし、
「たったひとつの、奇跡の人生」と、大切に思うこともできる。
思いひとつでガラっと変わる人生でも、どちらも「同じ人生」、たったひとつの、葛野薫、という人生。

どんな人生にするか、どう生きていくのかは、自分で選ぶことができるのです。

治すことはできなくても、一緒に生きることはできるんだ。

そして、何より、見えない存在、サムシング・グレート、大いなる宇宙、生命の根源・・・?
と、なかよしなので寂しくないのです。

↑・・・って言ってるのが寂しく見えますか? ^_^;

いつも見守られている、守られている、誰もわかってくれなくても、宇宙だけは何もかもわかってくれている。

そんな思いが、いつも私を支えていてくれるのです。


posted by Kaoru at 08:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: