2011年02月28日

咲く

まっすぐ素直に

思いのままに

光を多く取り入れようと伸びたい方に葉を伸ばす花のように

素直に咲きたい


人との関係の中で、気を遣う、遠慮するという何気ない行為でさえが流れをとめる障壁となりうることがある。思いきって受取ってみると、案外相手にとってもそれが必要だったということもあったりする。何より、誰かに「ありがとう」と言って喜んでもらえるという体験ができる。遠慮する、というのは、自分の勝手な思い込みでしかなく、逆に相手の喜びの体験の機会を潰していることにもなるのかもしれない。
それで「遠慮を知らないやつだな(図々しいというニュアンス)」と思うようなタイプの人は、その「与える・受取る」のバランスの中に、絶妙のタイミングと、需要と供給と、素敵なエネルギーの交換があるということを知らないのかもしれない。

あるいは勝手に「そう思われるのでは」という不安から、勝手に遠慮する。
控えめが美徳という日本人の刷り込みによって。

でも、それで流れが止まってしまうこともあるのだという可能性に、今更ながら気が付きました。

与えられたものをありがたく受取るだけで、せっかく素晴らしい方へと展開してゆくかもしれないのに。

自分の目の前に現れたものは、自分に対して差し出されたものは、その姿を現した時点で、すでに「受取る」ことを許されているから現れてくれるのかもしれない・・・

それで図々しいと敬遠されるのなら、それはそれで離れた方がいいのかもしれない。
というか、無理しなくても自然に離れます。

つい「悪いかな」と思って、なかなか受取り上手にはなれないけれど・・・


大好きな詩があります。ほっとします。


『生命は』 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃(そろ)っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない


posted by Kaoru at 22:41| Comment(0) | コトダマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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