2017年04月01日

魂の傷、それも設計図にあるもの

誰しもが魂に傷を負っています。

一見幸せそうに見えるあの人も

実は心に傷を負っています。
傷のない人などいません。

そう。いないんです。


それは、ちゃんと設計図に書いてある。


生まれた瞬間に決まる。

いや、生まれた瞬間のエネルギーを使っているだけで、すべては、すでに決まっている。

自分の設計図を具現化するために

いろんな人や状況やこの世界にあるものを利用して

自分が「魂の傷」を体験しているだけ。

そして、どう乗り越えるか、乗り越えてどうしたいのか
なんのために乗り越えるのか、
それもちゃんと書いてある。

ストーリーは
既に幾パターンも用意されていて
どのステージを体験するか、それだけ。


はじめは、
自分でどうにかできるようなものには到底おもえないかもしれない。
そして同時に
自分で何とかしようとあがくものかもしれない。


ただ

「どうしてこんな体験をしなければいけないのか」

「なんでこんなに辛いのか、苦しいのか」

「どうして、自分ばっかり・・・」

そんな思いにとらわれることだろう。



でも

それは長くは続かない。

人生の途中で


ふと
新しい世界に飛び込む日がやってくる。



イヤな思いをさせた体験もあれば
(自分にとって「イヤな人」は、当の本人はそれが当たり前と思って暮らしている。正しいことをしていると思って暮らしている。それはその人は自分の設計図に沿って生きているだけで、その部分を自分が「イヤだ」と体験しているだけ。)

自分も、あるときは
誰かにとっての「イヤな人」となり得るだろう。

でも、そうとは知らずに
不愉快な思いをさせているとは思いもせず
今日を生きている。

同じように
誰もが自分の今日を生きているだけで。


でも、素敵な思い出をくれる人、体験も待っている。

自分も、あるとき、
誰かにとっての「いい人」となり得る。


独りでは存在できなくて
誰かを使って「自分」を映したり映されたりして

「自分」の生を味わっている。


だから
自分も誰かにとっての
「イヤなヤツ」であり
「いい人」だと知ると

誰かの「イヤなところ」と「いいところ」を
過剰に反応せずに許せるようにならないだろうか?


自分が
世界に
人の中に
見つけるものは

自分の中にあるものでもある。

自分を通して世界を観ているので

自分が思うこと考えること話すことは

全部、自分の世界観を表わしている。

どうしようもなく
「個人」であることを

責めても仕方がないんだってこと。


じゃあ、どうするのか。

「誰か」や「状況」を見極めて
そこに
留まるか
次へ進むかは
自分次第。

どんなふうに生きるのかは

自分の設計図が発動している。

何が起こるのか

自分の周りにあるものを使って体験している。

たくさんの人と
状況と環境が

巧妙に絡み合って。

時に
敵であり
英雄であり

いろんな役どころの「個人」が

自分の人生に入れ替わり立ち替わり

現れて

お互いに
必要な体験をしている

この奇跡


自分に与えられたものを嘆いていても
残念ながら何も変わらない。


大切なのは
それをどう受け止め
どのように昇華させるか、
いかに光の体験へと変えることができるのか

ということで


つまり
「何が起こっても自分はどう在るのか」
ということで


自分の設計図を忠実に再現してくれる人たちを
キャスティングして
できごとも用意して

生まれてきて

ただそれが起きているだけで


変えられるのは

それを
どう受け止めるのか
(世界をどう観るのか)

ということだけ。


どんな世界にもできる。
どんなことが自分に起こっても。

それだけのちから・強さも
一緒に授かっている。


だから
つぶされそうに思う夜でも

息をひそめて
乗り越えよう。

どうしていいかわからないときは、
ただ生きているだけでいい。


傷も
光も

みんなが
同じように持っている。

ただ、自分のはすごーくよく見通せて、ひとのは見えにくいだけ。

だから、自分だけが不幸に思えるだけ。



必ず

「幸せだった」
「最初からここにあった」

と気づく日が来るから。





posted by Kaoru at 15:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする